合気よもやま話〜心のあり方と稽古への取り組み方〜

上達論

気付けば、武道を始めて20年以上の歳月が過ぎました。

今思えば、若い頃は我武者羅に稽古に励んでいましたが、
年を経るにつれ、稽古から荒々しさは無くなり、年相応のものとなってきました。

年齢的なものもありますし、自分が現在置かれている状況というのもありますが、
徐々に武道に対する心境は変化してきました。

ここ数年の話になりますが、徐々に今学んでいる流派を
伝えるお手伝いをしたいと思うようになってきました。

師には大変お世話になりましたし、今まで一緒に稽古してきた方達には、
本当に良くしていただいたため、何かお返ししたいと思うようになったからです。

そうして心持ちが変わると、次第に見えるものが変わり、
稽古への取り組み方が変わってきました。

それまでも私としては真面目に稽古に取り組んできましたし、
その時その時で一生懸命に稽古してきました。

振り返って考えても、当時はそれが精一杯だったと思います。

では心持ちが変わったことで何が変わったかというと、
技に求めるものが、’威力’から’正しさ’へと変わりました。

未熟な私では、人に教えるということは出来ませんが、
まずは正しく技が出来る様にならなければいけないと思う様になりました。

そうすると、何が正しいのかと考える様になり、
技の中の一つ一つの動作の意味を追求する様になりました。

それまでは自分が技が上手くなりたいという一心で稽古しており、
どうすれば技が効くのかということに意識がいっていました。

小手先の技術に目を奪われていたと思います。

その様な技術も知っておいた方が良いと思いますので、
それが悪かったというわけではありませんが、
武道の本質を追求しているつもりで、追求出来ていませんでした。

この記事を読んだ人は、始めから小手先の技術ではなく、本質を追求する様に
意識して稽古すれば良いだけではないかと考える人もいると思います。

私もその様に考えていました。

実際には出来ていませんでしたが、何を意識して稽古に
取り組むかが大切だと思っていました。

しかし、今はそうではないと考えています。

仮に昔の自分に今の私が大切だと思うことを伝え、
どの様に稽古に取り組むべきか全て教えたとしても、
本質を追求することは出来なかったと思います。

今考えると過去の私の稽古への取り組みは、’自分本位’でした。

’自分’が上手くなりたいという思いが強くありました。

その様な思いでいたため、目先や表面的なことに目を奪われ、
深い所には到達することが出来ていませんでした。

大切なのは心のあり方で、武道を修めるには、
’人のために’という思いが必要なのだと思います。

綺麗事に聞こえますが、今では本心でそのように思います。

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