合気よもやま話〜’合気’という言葉について思うこと〜

武道・武術

武道・武術を学んでいる人間からすると’合気’という言葉は、不思議な技の代名詞です。

小柄な老人が、体格に優れる若者をいとも簡単に投げ飛ばす。
性別も年齢も体格も超越する技法。

そのようなイメージだと思います。

しかし、’合気’という技法には、不可解な点があります。

現在では各流派・会派の師範が、’合気’について様々な説明をされています。

ここでは各流派・会派の師範により語られる’合気’の内容については、言及しませんが、
同じ’合気’を説明しているにも関わらず、全く別物に思えるものもあります。

師と弟子で違う場合もあれば、兄弟弟子で違っている場合もあります。

同じことを表現を変えて説明しているということでしたら、問題は無いと思います。
辿り着いている境地が違うから、説明が違っているというのも理解出来ます。

しかし、説明されている内容を見ると、全く違うものを同じ’合気’と言っているように聞こえます。

流派・会派により、’合気’の定義が違っていると言ってしまえば、それまでですが、
’合気’が性別・年齢・体格を超越する技の中核をなすものであるのならば、
その技法は、流派・会派の基本となるもののはずです。

その基本が違っているというのはおかしな話です。

’合気’の習得は難しいと言いますが、各流派・会派の’合気’の説明を聞くと
’合気’という技法についての伝承システムが不完全なように思います。

この伝承システムは、先人たちが知恵を絞った結果、辿り着いたものですので、
すぐに解決策は思い浮かびませんが、一つだけ是正した方が良いと思うことがあります。

’合気’伝承システムの不備は、言葉で技を伝えることが出来ないことに起因している
私は考えています。

各流派・会派の師範が’合気’について、様々な説明をされていますが、
それは補足であって、主たる伝承の方法ではありません。

’合気’の技は、技を実際に掛けられることにより、身体を通して理解し、習得していきます。

そのため、個人の受け取り方(感じ方)により、’合気’の定義が個人で変わってしまうのは、
致し方ないことです。

本来ならば個人毎に合気の定義が微妙に変わり、〇〇の合気(〇〇は個人名)という様に、
個人毎に定義されるものなのかもしれません。

しかしながら、合気系武道が歴史の表舞台に現れてから時を経るにつれて、
’合気’の定義が増え、現在では収拾のつかない状態になっている様に思います。

各流派・会派の師範が語る内容は、それぞれが会得したものを最大限分かりやすく、
表現したもので、各人が至っている境地によっても違っているのだと思いますが、
それが混乱を生んでいる様に感じます。

自分が至っている境地を次世代に伝えるため、最大限努力した結果ですが、
それぞれが表現することにより、次第に流派の中核となるものが曖昧になって伝わり、
将来的に’合気’が伝わらなくなってしまうのではないでしょうか?

’合気’は言葉ではなく、身体を通してしか伝えることが出来ませんが、
だからこそ、行き過ぎた装飾(過度の説明)はかえって、伝承を難しくすると思います。

後世に’合気’を伝えるのであれば、個人毎に最大限の表現をするのではなく、
基本となることを簡素に表現し、それを流派・会派の中核として伝承すべきだと思います。

そうすることで、時を経るにつれて、基本がブレることを防ぎ、
’合気’が別物となって伝わることを防げるのではないかと思います。

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