私の師の一人は、とても弟子が多い先生でした。
人格も技も素晴らしい先生でしたので、弟子が多いことは当然でしたが、
不思議なことに合気をものにした弟子はあまりいませんでした。
私も全ての弟子を知っているわけではありませんが、
実力が抜きん出ている弟子というのは、弟子の中でも噂に上がりますので、
誰々さんは技が使えるらしいというようにある程度把握することが出来ます。
実際の実力というのは、直接お会いしていないために分からない方もいましたが、
弟子の総数からするとそれでも合気を習得された方の数が少な過ぎるように感じました。
その当時は、合気は難しいものなのだから、習得している人が少ないのは
当たり前だと考えていましたが、稽古を重ねて、合気の輪郭が朧げながらも見えてくると、
それはおかしいのではないかと思うようになりました。
合気の技にも難易度があり、難易度が高い技は中々出来る人はいませんが、
比較的容易な技に関しては、入門して日が浅い人でも行うことが出来ます。
その師についていた当時の話になりますが、師の弟子のほとんどは、
容易な技に関してもまともに出来ていませんでした。
師は、合気を習得してから何十年も稽古を続けてこられた方でしたので、
今の私よりも多くのことが見えていたと思います。
弟子一人一人の修正すべき点やあるべき稽古の仕方など、
どうすれば合気が習得出来るか、分かっていたはずです。
では、なぜ弟子は合気が習得出来なかったのでしょうか?
合気の習得を阻むものはいくつかありますが、名人・達人の域にあった
師の下で修行していた弟子が合気を習得出来なかった原因は、
師と弟子の身体感覚に差がありすぎたためだと私は思います。
身体感覚に差があり過ぎたために、師の指導を
弟子が正しく受け取れなかったのではないでしょうか?
例えば、師に手の動かし方を指導されたとします。
手刀で相手の腕を斬り下ろすように指導された場合、
師の感覚では斬り下ろす動きで難なく技が出来ますが、
弟子がそれを行おうとすると相手の力とぶつかり、腕を斬り下ろすことが出来ません。
相手の力とぶつからずに腕を斬り下ろすには、
それを成すために行なっていることがあるはずですが、
師は無意識で行なってしまっているため、指導中の説明には出てきません。
師の感覚では、端的に正しく指導していますが、弟子に伝わらないということが発生します。
会話は成立しているのに、内容が通じていないということが起こります。
ここが難しい部分なのですが、師が無意識で行なっていることを
見つけようとしても自分なりの解釈が入ってしまうため、上手くいきません。
師のもとで学んでいた当時の弟子も、師が言葉にしていない部分を探り、
合気を何とかものにしようと努力していました。
同じ認識に至っていた人も多かったと思います。
ですが、結果として、合気を習得出来たのは一握りの弟子だけです。
問題だったのは、師が言葉にしていない部分に何を見出したかです。
当時をよくよく振り返ると、弟子毎に技の認識が違っていました。
これは本来あり得ないことです。
勝手な自己解釈で誤ったものを見出したために、その様なことが起きたのだと思います。
師と身体感覚に差があるために、内容が正しく伝わらなくなるわけですが、
師の言葉は、目指すべき感覚を端的に伝えていました。
自分に足りないもの(動き方や技のやり方)を見出して、付け足すのではなく、
師の言葉を信じ、その身体感覚に近付ける様に努力すべきだったのでは無いかと思います。
名人・達人のもとで弟子が育たないのは、身体感覚に差があるために言葉が伝わらず、
弟子が自己解釈することが多いために、誤った方向に行ってしまうことが一因だと感じます。
誤った自己解釈を防ぐには、安易な分析をしないことが大切で、
師の言葉を頼りに感覚を求めて稽古するのが良いと思います。
自分なりに技を分析するということを多くの人は行います。
私も行なっていましたが、これは、’合気’を習得するのに
失敗する可能性が高い方法だったと思います。
一度誤った考えに囚われると、そこから中々抜け出すことは出来ません。
技を分析するというのは本来入門してからだいぶ時間が
経ってから行うものなのでしょう。
分析せずに技を稽古するというのは難しいことですが、
合気を習得するための稽古ではそれが求められるのだと思います。
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