まず結論から書きますが、私は武道の技に格好良さは必要だと考えています。
理由は大きく2つありますが、人によっては武道の技に見映えや格好良さを
求めてはいけないと考える人もいるのではないでしょうか。
その考え方についても、よく分かり、その通りだとも思います。
格好良さを求めるのは、武道の本筋からは外れていますので、
見映えや格好良さを追求してどうするのだということです。
若い時分には多くの人がそうだと思いますが、
私も映画にあるような格好の良いアクションに憧れました。
同様に、武道にも格好良さを求める人は多いと思います。
私の後輩には、袴姿が格好良いと感じて、武道を始めた人間もいました。
武道・武術を始めるきっかけは人それぞれなので、
格好良さを感じて入門しても問題はありません。
入門した後にしっかりと武道の本質に触れることが出来るのなら、
それでいいと思います。
ということで、私が武道の技に格好良さが必要と考える理由の一つ目ですが、
技が格好良くないと人が集まらないからです。
武道・武術の技を残していくためには、毎年一定数の人に入門してもらう必要があります。
多くの会派では、広報活動の一環として定期的に演武を行なっていると思います。
現代社会で武道・武術に携わる人というのは、やはり少数です。
入門者が少なければ、会を維持することも出来なくなってしまいますので、
演武を行なって、多くの人に知ってもらうのは、大変重要になります。
そうして行なった演武が格好悪いと入門者は増えませんので、
途絶えることなく技を残すためには、武道の技に格好良さは必要だと思います。
では必要だからといって、稽古で技の格好良さを追求しても良いかというと、
それは駄目で、格好良さを追求するのは演武だけに限定すべきだと私は考えています。
普段の稽古で格好良さを追求してしまうと、本来必要のない無駄な動作をしてしまったり、
気を配るべき点を疎かにしてしまうからです。
私も若い頃に広報活動の一環としての演武を何度かしたことがあります。
演武で行う際には、見映えを気にして、技にスピードや力強さ、迫力を求めました。
そのこと自体は良かったと思うのですが、演武が終わった後の稽古でも
軌道修正出来ず、スピードや力強さを求めて技を稽古してしまったのは
失敗だったと反省しています。
武道の技に格好良さが必要だと考える、二つ目の理由ですが、
突き詰めた武道の技というものは、そもそも格好良いものだからです。
無駄を排し、術理に従って行う武道の技には、機能美があります。
この機能美が宿る技の格好良さは、ともすれば、経験のない方には理解しづらい、
玄人好みの格好良さかもしれません。
迫力も力強さもなく、場合によっては、スピードさえありませんが、
長年の修練の果てに辿り着く技には、美しさと格好良さがあります。
正しい稽古を繰り返す中で、自ずと備わっていくものですが、
そういう意味も含め、武道の技には格好良さが必要だと私は考えています。
今日の話をまとめると、格好良さにも種類があり、入門者を募るための広報活動として
行う演武の技では、武道の経験の無い人が憧れる様な格好良さが必要ですが、
通常稽古している武道の技としては、機能美としての格好良さが必要という事です。
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